岡崎武志が書けない大阪時代
ブラケットの同人の内輪で、小馬鹿にされていたと、今なら言えます。
「そんなことを知っているはずがない、わかるはずがない、女子供はおとなしくしていろ」
そういう空気が満ちていました。
手塚治虫の特集のための座談会に「ぶらけっとで漫画を描いているから」というだけで、駆り出されました。
子どもの頃は、手塚アニメに親しんでいたけれど、こと漫画においては、全くと言っていいほど縁がなく、読んではいませんでした。どちらかというと、つげ義春のような漫画に親しみを感じていました。
当然、座談会でも話すべきこともなく、他の方々の話のテンポにもついて行けずに、知らない者が批判めいたことを言うのも御門違いだと思い、何も発言せずに、会は終わりました。
後日、座談会の録音から起こした原稿には、しゃべっていない私の発言がありました。
岡崎武志に、そのことを言うと、付け加えたと。「これでええんや」と。
何の断りもなく、そのまま本は出来上がりました。
何かおかしいのに、誰も指摘しない、村岡真澄と岡崎武志ら仲良しグループの独裁の、同人誌という観念からは遠いところにあった「ブラケット」誌だったと思います。
言いなりになる人間が好まれて、異質で弱者が何か言おうものなら、鼻先で笑う。叩く。
私は学生時代に、いじめに遭っていました。学校という場所には、もう行きたくないから、と、高卒で就職しましたが、人間がたくさんいる所には、必ず、いじめがあり、差別があるという事実を知りました。
「ブラケット」も然りでした。南森町の事務所は、いつも学校の教室の中のように、居心地が悪かった。