誰も信じてくれない…

私が書いていることは、事実です。

でも、誰も信じてくれないのですね…

生きている意味がわからなくなってきます。

こうして、つらい気持ちをかかえ続けているうちにも、岡崎や松村は平気に生きている…無視すれば、なかったことにできると思っているのか…

岡崎武志が書けない大阪時代

ブラケットの同人の内輪で、小馬鹿にされていたと、今なら言えます。

「そんなことを知っているはずがない、わかるはずがない、女子供はおとなしくしていろ」

そういう空気が満ちていました。

 

手塚治虫の特集のための座談会に「ぶらけっとで漫画を描いているから」というだけで、駆り出されました。

子どもの頃は、手塚アニメに親しんでいたけれど、こと漫画においては、全くと言っていいほど縁がなく、読んではいませんでした。どちらかというと、つげ義春のような漫画に親しみを感じていました。

当然、座談会でも話すべきこともなく、他の方々の話のテンポにもついて行けずに、知らない者が批判めいたことを言うのも御門違いだと思い、何も発言せずに、会は終わりました。

後日、座談会の録音から起こした原稿には、しゃべっていない私の発言がありました。

岡崎武志に、そのことを言うと、付け加えたと。「これでええんや」と。

何の断りもなく、そのまま本は出来上がりました。

 

何かおかしいのに、誰も指摘しない、村岡真澄と岡崎武志ら仲良しグループの独裁の、同人誌という観念からは遠いところにあった「ブラケット」誌だったと思います。

 

言いなりになる人間が好まれて、異質で弱者が何か言おうものなら、鼻先で笑う。叩く。

 

私は学生時代に、いじめに遭っていました。学校という場所には、もう行きたくないから、と、高卒で就職しましたが、人間がたくさんいる所には、必ず、いじめがあり、差別があるという事実を知りました。

「ブラケット」も然りでした。南森町の事務所は、いつも学校の教室の中のように、居心地が悪かった。

岡崎武志が書けない大阪時代

同人誌「ブラケット」に所属していた、つまり茨木東高校で教師をしていた頃。私はその高校で漫研にいた卒業生でした。ある日、岡崎に「ぶらけっと」で漫画を描かないかと誘われた。

そこでは、人間としてバカにされたことも多かった。知識や行動、果ては着ている洋服や聴いていた音楽まで、全く相手にされていなくて、むしろ蔑まされていた。秋津久仁子には特に、露骨に嫌なことを言われた。私の好きな俳優、ドニ・ラヴァンを「ジミー大西やん」と。詩集の出版のお祝いに、フラットフェイスのアルバムをテープにダビングして贈ると、家で聴いて気に入ったのだろう、お礼の言葉もなく「レコード番号を教えてくれ」とだけ。

「ぶらけっと」の面々には、えてして教師づらして対応された。

描いた漫画にまで、あれこれ口を挟む。「こういうのを描けばいいんや」「こんなものは迷惑だ」…同人誌だというのに…

(つづく)

「松村のところには殴り込みに行ってやったからな」

私は、村岡眞澄の友人、ブラケットの関係者でもある、大阪の印刷会社の社長の松村信人(現在は澪標社)を就職先に紹介されました。

会社に挨拶へ行くと、色々なところに連れ回され、お好み焼きを食べに。その後「いい店を知っているから」と、バーへ。勧められ飲まされたのは、確かギムレット。そこを出ると二軒目にクラブ。松村信人は行き道、私の肩を抱いてきました。嫌な気持ちでしたが、これからの仕事のことを考えると、拒絶できませんでした。それから車に乗せられ、連れ込みホテルへ。遅すぎるくらい鈍かった私は、やっと、ことの危険性に気が付きました。コーラの缶を離さず、タバコを吸い続け、なんとか最悪の事態からは脱し、車で大阪の駅前で捨て降ろされました。
後日、村岡眞澄と岡崎武志の取った行動が、このブログエントリーのタイトルのようです。村岡の口から、はっきり聞いたのは間違いありません。
私は、就職も失ったどころか、自尊心までどこかへいってしまいました。ありていにいうと、心が壊れてしまいました。
ブラケットの同人は、誰も何も言いませんでした。なかったことにされたと、うっすら感じていました。みんな、私のことを好ましく思っていなかったのかもしれません。孤独でした。